17日(日)四井雄大さんの在廊時間のご案内

先日明日17日(日)の四井雄大さんの在廊時間を
10:00―18:00とご案内しましたが
ご都合により14:00‐18:00に変更になりました。

四井さんにお会いしたい人は
14時から18時に来て下さい。

よろしくお願い致します。

四井雄大展のテキスト(若山 満大 愛知県美術館学芸員)

「もったいない」の正体は、スターダスト
——四井作品とのほどよい距離の取り方

 身銭を切って陶器をひとつ買うとして、ぼくらはそれに何を期待するだろう。どんな料理を盛りつけてもサマになる汎用性。それとも、丈夫さ。自分のセンスの 良さを象徴的に示すスタイリッシュな“かっこよさ”や“かわいさ”だろうか。あるいは全部、レーダーチャートの平均点がいちばん高い“オールマイティ”な ものを選ぶかもしれない。
 ぼくらは“もの”と一期一会の出逢いを果たす。出逢うきっかけは無数にあるが、選ぶ理由はつまるところ たったひとつ「気に入ったから」である。そして、おびただしい数の「気に入らなかったもの」を一顧だにしないまま、ぼくらは選んだそのひとつを愛し、選ん だ自分自身を愛す。そしてその影に隠れるように、誰にも愛されなかったもの/誰もが抑圧する“わたしの(悪)趣味”はある。そんな誰の嗜好の網からも漏れ てしまったものたちの行方について、四井雄大は考えている。
 四井の作る陶磁器は、それはそれはスタイリッシュ、ではない。むしろ 場をもっさりとさせる異様な存在感を、どの作品ももれなく備えていると言ってよいだろう。胎は分厚く、おもい。異なる土を練り合わせた「ミクスド土」の斑 点は、緑・赤・褐色、力強い土の色を呈している。土の味を濃厚に宿す一方で、作品は“突拍子もない”と形容すべき造形原理に貫かれている。巨大なハン マー、浴槽型スピーカー、ファミコンの“十字キー”、雨どいの付いた急須、バナナ、絵画用キャンバスなど「ちょっと変わったやきもの」は枚挙にいとまがな い。罪悪感を物ともせず強力ボンドで取り付けられたマグネットや胎に仕込まれたファスナー、工事現場の「虎ロープ」を急須の把手にする意匠など、異素材を 使った“離れ業”も実に多彩である。食器だって作っている。持てない皿、握ると痛いマグカップ、メロンパンをのせるための皿、「スパム」の缶詰をのせるた めの高杯、六花亭「バターサンド」をのせるための“北海道”型足付き大皿、といった具合に。
 かっこいいものは、いつも既視感をと もなって現れる。それは常に誰かが既に認めたものであり、自分のなかに既に出来上がった価値体系にぴたりと収まるものであるからだ。「いままでこんなのな かった」「誰ともかぶらない」と思えてならないのに、実はわたし/みんなが「既に知っている」。かっこいいものは、そういう逆説をはらんでいる。四井作品 には、ぼくらが見知ったものが要素として必ず組み込まれている。ハンマーもスピーカーもファミコンも、北海道のかたちだって、ぼくらは知っている。しかし 見知った/見飽きたものが「いつもと違った仕方」で目の前に現れるとき、既視はとたんに未知へと変わり、自分の価値観が揺さぶられるような“心地よい錯 乱”に見舞われる。四井の作品に相対したときの何とも言えない「居づらさ」あるいは「感想の述べづらさ」は、ぼくらの内に起こる、この手の混乱に依るので はないだろうか。未知のような既知とは対局的な仕方で、すなわち既知/意味から未知/非意味を生み出すところに四井作品の魅力はある。
 既知/意味の世界を生きること、すなわち他者とある価値観を共有することは、裏を返せばその共有を拒んだ瞬間から孤独になることを意味する。四井はこのこ とを半ばトローマティックな出来事として体験している。四井は任天堂のゲーム・思想をこよなく愛し、マクドナルドやサイゼリアを好んで利用する。任天堂の ゲーム機と言えば、80年代から90年代生まれの世代の多くが遊んだ、馴染みのオモチャである。小学生にあがるかあがらないかの頃、誰もがみな任天堂を入 り口にゲームの世界に入っていった、と言っても当該世代で異を唱える人は少ないのではないか。しかし同時に、任天堂のゲーム機がソニーの「プレイステー ション」や黎明期のオンラインゲームに至るひとつの段階に過ぎなかったこともまた、多くが記憶するところだろう。自分の一人称が「ぼく」から「オレ」に変 わるのと時を同じくして、ぼくらは雪崩を打ったように「大人っぽい」「かっこいいもの」の方へ引き寄せられていった。そしていつしかマクドナルドの代わり にスターバックスを利用するようになり、ファミレスのような外食チェーンで食事をすることが“純粋な楽しみ”ではなく“すこし野暮なこと”だと感じるマイ ンドセットを形成してきた。ある時点で至高の楽しみだったものが、年齢を重ねるごとに絶対的/相対的に劣位に転落していく。四井がこれに無自覚であるどこ ろか、強烈な違和感を感じていたことは言うまでもない。四井がこれほどまでに「かっこよさ」を忌避し、マジョリティの支持を得にくい「(究極の)たいした ことないもの」の制作にこだわり続ける背景には、幼少期から思春期にかけて体験した“突然のおいてけぼり”に対する恐怖/反抗がある。少し大仰に言えば、 他者の価値観への猜疑、他者の欲望を引受けることに対する禁欲が彼の立ち居振る舞いを決定づけているように見える。そして彼はできるだけおいてけぼりを喰 らわないように、敢えておいていかれるという態度をとるのである。
 しかし四井は尚もって、その作品を通して他者と関係しようとす る。他者の価値体系を敢えて逸脱させた作品で、コミュニケーションを計ることは矛盾しているようにも思えるが、そうではない。コミュニケーションの本質は 何を伝えるかではなく、どう伝えようとするかというレベルにある。四井は「自分の価値観は他者と共有できない」という絶望的前提から出発しつつ、積極的に 評価されないもの/認められないものの再評価を主張する。それはあたかも誰にも買われることなく売れ残った在庫を、もういちど店頭に並べているようであ る。ここには「在庫のジレンマ」とも言うべき、売れないものを敢えて売ろうとするときに起こる売り手の葛藤がある。そしてこのジレンマの解消には、相克す る買い手の価値観と売り手の価値観のおとしどころを探る必要があるだろう。四井の作品には、観る者(四井が言うところの「受け手」)にとって積極的に消費 しようとする理由が見当たらないにもかかわらず、その“わかりやすさ”によって観る者の価値観の外部に置かれることを防ぐ周到さがある。例えば、鉄でできた抽象彫刻ならば「使えないし、意味不明」という理由である価値観の外部に捨て置かれることがあってもおかしくない。しかし四井の作品は少し違う。積極的 に使用したいと思うかどうかは別として、とりあえずそれが何であるかは必ず同定できるようになっている(皿、湯のみ、急須等、馴染みのフォーマットを踏襲 している)。つまり積極的な評価を受け得ない仕様に反して、こちらの理解の俎上には必ず乗ってくるというのが四井作品の特性であると言えよう。理解し難さ と理解しやすさが同居しているがゆえに、彼の作品は意味/無意味の境界線上にある。
 四井は制作について語る場面でよく「もったい ない」という言葉を口にする。「もったいない」とは、ものの持つ潜在性(ポテンシャル)への思慕である。あるいは、ものがぼくらに理解されることよって常 に虚勢・矮小化されることへの口惜しさと言ってもいい。理解とは、事物の特定の側面のみを見て、これを判断することである。つまり、ぼくらがある事物につ いて「わかった」と口にすることは、総体を一望俯瞰した気がするだけの勘違いである。実際は、多くの情報を捨象・割愛することで然るべき程度に縮減してい るに過ぎない。しかしながら、ぼくらはあるものの総体をくまなく知ることはおよそ不可能である。それは、ものには必ず見落とされる側面があるということを 意味する。自分が良いと思った側面が他者によって見落とされるとき、ぼくらは得てして「もったいない」というのではないか。そして四井の言う「もったいな い」もまた、かくして捨象・割愛されたものの潜在性に対して発せられるものではなかろうか。
 ものが虚勢も、矮小化もされずにひと に「理解」されることを願うこと。この稀有なる状態を希求することは、あたかも彗星の尾の一瞬のきらめきに恒なれと求めているかのようである。認められな いものの価値/スターダストは刹那の明滅のうちに消えていく。あんなに綺麗なのに「もったいない」。いや、「もったいない」からこそ綺麗なのだろうか。ひ とがみな彗星本体のみを見て歓喜しようとも、「それでもぼくは“ダスト”がいい」と、四井なら言うかもしれない。一顧だにされないものへの愛。捨て置かれ たものへの共感。作り手・四井雄大を駆動するのはそういう“感じ”である。そして受け手が、作品を手に取り、破顔一笑、そっと元の位置に戻したならば、彼 にとってこれ以上喜ばしいことはないだろう。作り手と作品と受け手が関係したその一瞬、作品(もの)は前より少しだけ“よく”見える。スターダストが確か に輝いていたことを確認するため、四井は「たいしたことないもの」を作り、ぼくらの目の前に置くのである。

若山 満大(愛知県美術館学芸員)