伊藤慶二の絵画作品
伊藤慶二は、日本陶磁協会賞金賞を受賞するなど陶芸家として高く評価され、若手の陶芸家たちからも慕われている。
しかし最初から陶芸を志したわけではなかった。
少年時代から絵を描くのが好きで、武蔵野美術学校に入学して油絵を学んだ。
しかし絵画を学んだものの卒業後も東京に住みながら絵の道を追い求めようとはしなかった。
それは、「美術学校卒業の時点では絵では生活していけるとは思えなかった」「都会の暮らしにもなじめなかった」という。
これは昭和30年代に入り戦後の混乱期が収まってきたとはいっても、社会に対してどこか信じきれない頼りなさを感じていたからではないだろうか。
10才になって敗戦を迎え、それまで軍国教育を受けていたわけであるから、大人が教える価値がひっくり返る様子を目の当たりにして、
子供ながらに社会を懐疑的に見るような覚めた思いがあったのかもしれない。
そうして郷里に戻ったところで、美術学校へ行く以前から絵の仲間として交流のあった同年の加藤孝造から誘いもあって、岐阜県陶磁器試験場デザイン室に勤務することになった。
ここでの伊藤の最初はデスクワーク中心であったが、それだけでは満足できず自ら土と対峙し、素材を知り、焼き物の技術をマスターしていった。
当時陶磁器デザインの先駆者として各地で指導を行っていた日根野作三が多治見にも定期的に訪れていて、その指導を受けるようになって大きな影響を受けたという。
日根野からは必ずペーパープランから始めることを学んだという。
それは、彫刻にしても絵にしてもデッサンを基礎とするように、焼き物による立体もデッサンをすることを基本とし、現在まで続けているのである。
日根野作三の影響からクラフトの器を作り日本デザイナーズクラフトマン協会の展覧会に出品するなどしたが、そうした団体展との関りは長くは続けていない。
それは地元の美濃陶芸協会でも発足に参加しても数年で脱会しているように基本的に独立独歩を貫いている。
それは声高に叫ぶでもないが、制作活動は常に主体が自分であって外の価値観に合わせることではないということだろう。
今回の個展は、絵画作品だけで構成される。
美術学校在学中の油彩から近作まで、画家としての回顧とも言えそうである。
展示の構想で重要な主題のひとつは、《HIROSHIMA》《Nagasaki》《チェルノブイリ》というモノクロームの作品群であろう。
これまでの焼き物による《面》や《足》、またそれらを含んだインスタレーションには、「祈り」があると言われてきた。
その祈りが平面作品では、人物の顔を描いた作品と核による災禍の記憶をとどめるシリーズに現れている。
結果、陶による作品と絵画とをやすやすと往還し、《面》などのテクスチュアが油彩で描かれたマチエールとどこか通じていることが感じられる。
伊藤自身は核の災禍を直接的に被ったわけではないけれど、これらには祈りだけではなく、人間存在を脅かすものに対する静かな憤りも込められているといってよい。
先にも述べたように、彼らの世代は軍国教育を受けた少年時代の日本の空気と敗戦後の混乱とがないまぜになって、その制作活動にどこか陰を落としているのではないだろうか。
それは核の災禍がなかったことのように扱われていくこの国のあり様に対しての異議申し立てであり、作家自身の不安な心情を落ち着かせているものかもしれない。
伊藤にとって絵画作品は、クラフトに始まり焼き物の器からやがてオブジェを手掛け、また、インスタレーションによる空間構成などと並行して、
あるいは往還しながら制作を続けてきたその出発点であり、人から何者かと決めつけられることへの言葉少なの抵抗と回答と彼の存在証明になっているともいえる。
さらに言えば、そうした外の価値観に迎合しない生き方が美濃の若手の作陶家たちから慕われる所以であろう。
豊田市美術館 館長 高橋秀治